File No.45-3  グローバルは、オーディオの楽しみが少なくなる。(3) -コラム-

グローバル思想は、人類の楽しみを奪ってしまうということについて解説しています。

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File No.45 / 03

グローバル思想は、人類の楽しみを奪ってしまう。

グローバル思想は、国際的にビジネスを展開して企業の利益を増大させるなど企業の生き残りなどと経済学者などは表向きにはきれいごとを並べますが、突き詰めていくとお金儲けだけです。

お金儲けが悪いといっていることではありません。

お金儲けを追求するあまり、芸術や文化的な人類の財産や各自の思考なでの人の心に関するものが軽視されているように思えてしまいます。

ビジネスが利益追求することであるのは間違いないことですが、行き過ぎた利益追求が人類の楽しみを奪ってしまっているように感じてなりません。

私は趣味の音楽やオーディオを通してグローバルというものを見ていると、オーディオが昔のように楽しめなくなってきているように感じてしまいます。

どこの国でも同じ音、同じものになってしまうと、各国の考えや個性がなくなってしまい、あらゆることが本当の意味で楽しめなくなってしまいます。

オーディオのスピーカーで考えると、スピーカーユニットのほとんどが1つの国の工場で製造されて、各メーカーの違いは外側のエンクロージャーのデザインだけでは楽しくありません。

中身のほとんどを自社開発をすることなく、外見のデザインだけのオーディオに貴重なお金を投じる気になれないのです。

オーディオの出来栄えの優劣は別にして、その国独自の音を味わいたいのです。

このことは、レコードやCDなどのソフトウエアについても同様なことがいえると思います。

オーディオファンにとって各国のレコードやCDの音の違いを楽しみたいと考えています。

  

『アメリカは、荒い開放的なサウンド』

  

『イギリスは、暗いが緻密』

  

『ドイツは、精度が高く硬い』

  

『日本は、重箱の隅をつつくように精度が高いが、全体が甘い』

などの国ごとの個性があって、オーディオは本当に楽しめます。

それがなくなるとオーディオは、ただそこには記録された音だけが存在するだけのものになってしまい、音の中に心が存在しなく無機質なものになってしまいます。

私は、ビジネスはどうであれ人類の貴重な楽しみを奪ってしまうようなグローバル的な考えにどうしても賛同することはできようにありません。

世界がグローバルに進む中、私自身の考えがが一種の原始人的な存在なのだろうかと、いつも考えてしまします。

waltz for Debby(UNIVERSALのUSA盤CD)の写真
waltz for Debby(UNIVERSALのUSA盤CD)

グローバルは、一部の人だけが得するシステム

私がグローバルというのが好きになれないのは、お金だけを追いかけるシステムなのでグローバル企業に利益になることは、何でもするということです。

他国の生活インフラであれ医療であれ独占できるものは何でもお金の力で独占して、他国のお金や名誉のすきな政治家を取り込み、グローバル企業有利になるよう法案を通し、最終的に人の思考までコントロールしようとすることです。

グローバルの結果、一般の庶民がどんなに困ってもお構いなしで、一部の人だけが得するシステムになっています。

現在のグローバルを推進することは、利益追求(お金)の為であれば人の心を持たないということで、

 

『人の心や善意よりも上にお金の方が大切』

ということになります。

心をともなわない発達が、本当に人類は発達したといえるのでしょうか?

ただ物質的に豊かさだけが人類の本当の発達とはいえないと思います。

グローバルを推進するのならスポーツのようなルールを決める必要がある。

グローバル社会など推進や宣伝する前に、世界的に一定のルールが必要だと思います。

他国の水道・電気・ガス・鉄道などの生活インフラは、出資協力は出来ても支配することはできない。

どの国も、80パーセント以上の食料、工業を自国で生産できるように協力する。

その他、他国を庶民を侵害するようなことは一切出来ないルールが必要だと思います。

このような思いやりのあるルールを元でグローバル企業ということにすると、恐らくグローバルを推進している企業や政治家などはグローバルなど言わなくなると思います。

本当のグローバルというものは

本当のグローバルというものは、他国の利益を根こそぎ収奪していくのではなく、全ての国が自国の特徴のあるものを製作し交換しあうことだと思います。

それが出来て、初めて本当の楽しい社会になるといえるでしょう。

例えば、オーディオファンがイギリスのオーディオ製品を求めるときイギリスの企業のネームが入っただけの製品を求めているだけでなく、イギリス人の考え、思考が入っている製品が欲しいと思います。

せっかくイギリスのオーディオ製品を求めたのに、アジア諸国で製作されたアジア臭い匂いのするような製品を購入させられるのは決して楽しいものではありあません。

オーディオ好きの人にとってイギリスのオーディオ製品は、あくまでもイギリス的な匂いのするものが欲しいものです。

このことは、製品の品質や音の優劣をいっていることではありません。

イギリスの製品であれば、イギリスの人が自らの努力で心の込めて製作されたもの製品であって欲しいものです。 もちろん日本は日本らしいオーディオ製品ということで、同じようにあてはまることでしょう。

そのオーディオ製品の中には、製品を製作するときの精神や魂が宿っているからです。

製作した人の心や魂が入っていないオーディオ製品やCDなどを、心から楽しむことなどできようにありません。

このようなことは、オーディオ製品でなく人が創造するもの全てにいえることで、人の心の入っていないものは、ただそこに形や音というような無機的なものが存在するだけになります。

私は、そのようなものが好きではありません。

私が現在のグローバル推進というものが好きになれないのは、言葉でどのようにきれいごとを並べて良く見えてたとしても、中身は表面的で薄っぺらく、その根底にはただお金だけを求めているだけだからです。

人としての心をともなわないようなグローバル的な展開が短い期間では上手くいったとしても、長期的に上手くいくようには考えられず何れ失敗することでしょう。

その大きな企業のでのグローバルによる失敗の付けは、必ずといって良いほど一般の庶民の払わされることになるでしょう。

1990年以降にグローバル化に突進していった多くの日本の大企業の現在の状況を観察していると間違いない事実だと思います。

グローバル化に突進した世界一のオーディオを研究・開発・製造能力のあった日本の大手のオーディオメーカーの現在は、技術者魂も失われ恥かしさもなくオカルトメモリーカードを販売する企業に成り下がってしまいました。 お金儲けの為とはいえオカルトメモリーカードが、その企業の信用をどれだけ落としてしまっているか想像できなかったことでしょう。

現在のグローバル思想は、人がお金を追及していくあまり、人の幸福や安全など軽視されてきているのように感じてなりません。

グローバルというものは、各国の人たちを幸福にできるように心あるルールのある方法で推進していことこそが、本物といえるのではないでしょうか。

それが出来ない状況でグローバル推進は、私は到底賛成できそうにありません。

恐らくグローバルは、成功しないだろう。 つづく


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