File No.62-9  『made in Japan』の意味(9) -コラム-

日本、復活の鍵、全て自国で生産することが最大の国家戦略であることについて解説しています。

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011 / 09
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File No.62 / 09

日本、復活の鍵、全て自国で生産することが最大の国家戦略

日本は、グローバル推進を進めた結果、多くの日本にあった主要な大手家電機器メーカーが衰退し、企業を身売りしたり、日本製品の品質の低下を招くことになりました。

日本がJapan as No.1といわれていた最も栄えていた1980年代には、ほぼ全ての製品が日本生産でした。

当時は、日本国内で生産した日本製品を輸出することで多くの利益を上げていましたが、日本が本当に豊かであったのは、日本製品を輸出した利益ではなく国内の需要が豊かであったからです。

国内で生産していたことが、日本を豊かにした原動力そのものだったと考えられます。

日本がグローバルに進めば進むほど、日本国内は格差をつくり、国民全体的に貧困へと向かいます。

多くの日本企業が、グローバルへと移行して、どのように変化したかは、約20年たった現在の日本の状況から既に結果は出ています。

グローバルでは一部の人たちが、大変豊かになるだけのものでした。

もうそろそろ日本は、グローバル以外に新しい方法を実施する必要が出てきたと思います。

日本が豊かだった時代の方法をそのまま実施すれば、上手くいくのではないかと考えています。

つまり、日本国内で出来ることは全て自国で生産することが、平和的な最大の国家戦略で最も日本国民を豊かにする最大の国家政策ではないかと思います。

人件費が安いから海外に工場をつくるなどの考えは、奴隷社会の考えを衣を変えただけだといえます。

なぜならグローバル企業は、海外の人件費の安さに注目するものの、工場を運営することで公害が発生することなどには目を向けることはありません。

もし日本と同じように公害の対策や品質管理を行うと、海外で安価に生産するメリットがなくなってしまうからです。

実際には、公害問題や労使問題など全てをクリアーしなければ、本当の意味で優れたグローバル経営だとはいえません。

公害問題や労使問題など全てをクリアーしないで海外に投資するという精神は、海外の人を利用することしか考えない奴隷制度と変わりないと思います。

どのような美しい言葉で覆いかぶされようが、実際にやっていることは人を利用するだけ利用することと変わりありません。

これは、人(日本人)として劣化したというしかありません。

出来ることは全て自国で生産するという考えは、日本だけに限った事ではなく、世界の国々が自国で生産する体制になることが、人にとって最も幸福になれるように思います。

人類が原始時代から進化するということは、物質的だけに豊かになることではなく、精神的にも進化する必要があります。

コンピューターなどの高度な知識を得たり、様々な高度な学習能力が向上しても、人に対しての思いやりがないないなら、人類は精神的に進化したとはいえません。

各国が本当の意味で独立しているといえるのは、農業、工業をはじめ、全てを自国だけで生産できることが重要な要素になります。

仕事の利益の大きさだけに注目して、株や保険、賭博などが効率的だとしても、農業や工業を疎かにすることは出来ません。

現在は、海外で生産したものを逆輸入することで、食糧や製品を得ることが可能になりました。

輸入は、合理的な方法と思いますが、行き過ぎるとバランスを欠いてしまうといえます。

食料が、安価に輸入できるからといって、全てを外国の食料の輸入に頼ると、いざ震災などが発生すると、輸入が止まり飢え死にしてしまいます。

現在なんでも輸入できることが当たり前になっており、普通の状況であればお金さえ持っていれば何でも買えることでしょう。

しかし、地震が予知できないのと同じで、この先どのように情勢が変わっていくかも知れません。

いざ情勢が変化すると全てが、お金で解決できるという長い間に当たり前になっていることが、当たり前ではなくなってしまいます。

私たちは、長い生活の中で無意識のうちにお金信仰に染まってしまい、お金の効力に本能され、生きて行く上での基本的な大切なことを直ぐに忘れてしまいます。

頭の中ではお金が全てではないと理解していても、常に日常生活の中でお金と共に行動しているので、生きて行く上での基本的な大切なことに無頓着になり考えることもしません。

ほぼ全ての食料や製品を日本国内で生産できるようにしておくと、どのような事態でも慌てずに対処が可能となります。

日本が復活する鍵は、『出来ることは全て自国で生産する』ことが最大の国家戦略ではないかと思います。

出来ることは全て自国で生産することが出来るようになれば、いざ世界で何かが起こったとしても心配する必要がありません。

グローバル政策が、中心になっていくと、海外の情勢の変化を大きく国内に受けてしまいます。

海外の情勢の変化しても日本国内で全てをまかなうことが出来ていると、慌てる必要はなくなります。

例え外国の影響で株式や為替が大きく変動することで巨額の損失を蒙ったとしても、出来ることは全て自国で生産していたなら、実態のないものを失うぐらいでびくともしません。

政府の方針で国土強靭化計画をいうなら、この日本で出来ることは、『出来ることは全て自国で生産する』ことこそが、本当の国土強靭化ができるものだと思います。

本当の国土強靭化は、自由化の元で水道やガス、電気などの生活インフラを外資に売り渡すことでもなく、国家戦略特区というところに外国人たちを誘致することでもなく、既に新幹線の走っているルートにリニアモーターカーを通すことでもありません。

リニアモーターカーなどは、日本国内で『出来ることは全て自国で生産する』ことが達成できてから、いくらでも引けば良いでしょう。

日本国内で『出来ることは全て自国で生産する』ことが出来ていないのに、何か新しいこと求めるのは本末転倒で、今後、日本国内がより厳しい状況に立たされることになるのは目に見えていることです。

日本国内で『出来ることは全て自国で生産する』のは、日本に移民を推進して安易に外国人に頼ることではありません。

現在、日本に住んでいる私たち(日本人)の手によって、日本国内で『出来ることは全て自国で生産する』ことを実行する必要があります。

外国人に頼っていては、何れ日本国内が骨抜きにされて、私たち(日本人)の住む場所を奪われることになります。

日本政府が本当に国土強靭化計画を進めているなら、日本国内で日本人の手によって『出来ることは全て自国で生産する』ことが本物の国土強靭化計画になると思います。

日本が、かつてのような平和で豊かな社会に復活する鍵は、日本人の手によって『出来ることは全て自国で生産する』ことこそが最大の国家戦略であると確信しています。

それ以外、考えることが出来ません。

国内生産がないのは、楽しくない(合理性を追求するあまり、多くを失ってしまう。)

日本国内だけで生産すれば良いというのではなく、同じ機能をもっている製品でも各国が独自に開発し生産しなければ楽しくありません。

これは合理化を追求するグローバルリズムに真っ向から反対の考えです。

オーディオ製品などを求めるとき、各国で生産された独自性のある個性的なオーディオ機器を聴いて見たいと思います。

現在のように源流となる製造国が全て同じであるようなオーディオ機器は、各国独特の考えや個性がなく、全体に個性が似てきてしまいます。

グローバルで合理化を優先すればするほど、各国の個性が薄れてきます。

オーディオ機器などで例えると、イギリス、ドイツ、アメリカなどのオーディオ機器でしかないような独自の個性がある音や考えが伝わる製品の方が遥かに楽しむことができます。

何処の国のどのメーカーのオーディオ機器が優れているというだけでなく、部品など製品的には遅れているように見えても、独自の考えと音があれば、今まで見えていなかった物事が多く見えたりします。

各国にいろいろな考えがあるから学びあえるの写真
各国にいろいろな考えがあるから学びあえる

日本でオーディオ機器を生産している時代は、アイデアやハイテク性、高い品質、性能面では日本のオーディオ・メーカーが世界のオーディオ製品よりも遥かに優れている部分が多くありました。

しかし、当時アメリカやイギリスの製品は日本のオーディオ機器に比べてスペック的に貧弱に見えたものの、音を聴くと日本のオーディオには、アメリカやイギリスのような音の個性が欠けているように感じられ、スペック以上に海外から学ぶものがあるよう思いました。

これは、逆のことも言えるように思います。

アメリカやイギリスのオーディオ・メーカーは、日本のオーディオ・メーカーのオーディオ機器を品質や出来栄えをみて、もっと自社の製品の品質を追求する必要があると感じたと思います。

相互の優れた部分があるとお互いに学ぶ部分があり、製品の発展が進みます。

それらがグローバルにより一色単になってしまうと、製品に差がなくなり、お互いに学びあうチャンスを自ら失ってしまっいるように思います。

比べるものがあるから、欠けている部分を補うように頑張れるように思います。

それがすべてが一緒になってしまうと、個性や品質・精度もそれなりになり、学ぶことをしなくなってしまいます。

各国が考えが似かよってくると、国内とは違う各国の優れた考えを学ぶことが難しくなります。

各国が同じでないから、自国にない良い部分を学べるものだと思います。

これは外国に限ったことではなく、日本が独自に海外の風習よりも優れた部分も薄まり、海外の人が日本から学ぶものがなくなってしまうともいえます。

どの国もできる限り国内で生産することが、お互いに尊敬し学びあうきっかけとなり、世界をより楽しくするものだと思います。

同じ製品に品質の評価の差がありすぎる現実

現在は、インターネット社会になり大手の通販サイトなどで、製品を購入する前に製品の使用感などの評価が見れる時代になりました。

製品の購入前の評判を参考にしようとして、同じ製品について多数の評価を確認すると非常に良い評価と同時に非常に悪いという評価を目にします。

製品の使用感などは、人それぞれで参考にする部分と気にならない部分など問題ないのですが、非常に悪いという評価は製品の何が悪くて非常に悪いと評価しているのだろうと大変気になります。

非常に悪いという評価を見ていると驚いたことに、製品に大きな傷が付いていたことや2ヶ月で使用不能になったなどの非常に初歩的な欠陥に対して、気分を害して非常に悪いという評価になっています。

このような初歩的な欠陥は、30年前の日本製品では皆無でした。

同じ製品で評価の差が大きい現実の写真
同じ製品で評価の差が大きい現実

30年前の日本製品でも十年以上経過した後に突如と故障するようなことはありますが、買ったばかりの製品が不良であったり、大きな傷が付いている製品などは、日本のメーカーとしては不良としての想定すらしていなかったものです。

製品に大きな傷があったり、購入後、直ぐに故障する製品などは、製品として成り立っていないからです。

日本で生産している時代には、非常に厳密に製品を管理されていたので、初期に致命的な不良は、ほとんどありませんでした。

かつての日本では、もし不良が発生したら直ぐに全製品を回収チェックして、製造ラインを調べたりして原因を特定するのが普通だったので、初期不良が非常に少なかったものです。

しかし、グローバル化が進むにつれて、製品の品質管理も日本の品質管理の基準を放棄してグローバルの基準が重視されるようになり、消費者にとって製品を選ぶとき、ある程度、初期不良を覚悟して購入しなければならなくなりました。

日本製は品質が良いというのは、20年から30年前の日本で生産された製品のことで、現在は品質が低下する一方です。

ここで本当に心配されることは、このような初期不良が、当たり前の感覚になり、何も感じなくなることです。

グローバル品質が普通になり、初期不良に対して何の思いもなくなったとき、私たちは高品質を製品というものに無頓着になったということになります。

かつてのように高品質を目指して製作された日本製品の精神が失われたということです。

これは日本のものづくりそのものが、劣化したとしか言いようがありません。

現在のような同じ製品に品質の評価の差がありすぎることは、決して良いことではありません。

製品を生産して販売するメーカーは、自社の製品の品質にもっと気をつかう必要があります。

製品を販売するメーカーは、現状の同じ製品に品質の評価の差がありすぎる現実を知り、真剣に是正していかなければいけないと思います。

日本の伝統を守るということは つづく


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